拝命から一月経った今、泉守の仕事の段取りにもはかなり馴染んできた

  週に一度、主に泉の水質に関する報告書を作成し、教皇宮におわすシオンに提出する
  それ以外は、泉の周りの草むしりや、樹木の簡単な手入れぐらいしか仕事らしい仕事は無かった

  あの小屋も、が何日か掛けて掃除・整理した甲斐あってか、随分人が住むのに相応しい様相を呈するようになっていた
  流石に、家具やあの天蓋はどうにもすることができないが、床を磨いたり、壁を拭いたりしているうちに、妙齢の女性の住居らしくは見えてきた

  換気をするだけでも、森林の空気が家の中を隅々まで吹き渡り、が以前暮らしていた街中とは大違いだった


  朝、起き抜けには湯を沸かして、紅茶を入れる
  ミルクをたっぷりと入れ、砂糖は抜きで
  熱い液体を体に注ぎ込んで、は目を覚まし、朝食を採る
  その後は、泉に出かけて僅かな仕事を片付け、その日の残りを泉の傍でぼうっと過ごすか、森の中を探検してみるか、
  はたまた家に帰って手入れをするというのが大体の決まった生活パターンだった

  街中を電車で往復したついこの間までの日々が、まるでウソのように静かな日常
  寂しくはないのか、と思われそうだが、毎日の様にデスマスクが遊びに来るため、がそう感じることは皆無に等しかった

  デスマスクは、決まってその日の任務を終えた夕刻にの家にやって来た
  は彼のために、毎日二人分の夕食を用意し、小さなダイニングテーブルを二人で囲む
  いつも一人ぼっちのを寂しがらせないためか、デスマスクはその日聖域であったことや同僚の笑い話、任務中の四方山話など、
  楽しい話ばかりをしてをよく笑わせた
  そうして2〜3時間も過ぎた頃、夜の闇の中を独り、巨蟹宮へと帰ってゆくのだった


  不思議なことに、あの初日以来、デスマスクがの寝室に足を踏み入れようとすることは無かった
  別段、がそう望んだわけでもないのだが、デスマスクなりの遠慮なのかもしれない
  何時もは飄々としてふざけてばかりいるデスマスクだが、本当はものすごく不器用なのかもしれない
  デスマスクが帰った後、食器を片付けながらはそう思うのだった
  そして、そう思う度、は口元を緩めずにはいられないのだった


  …もし、のその表情を誰かが目にしたなら、きっとこう言うだろう
  「貴女、誰かのことを想っているのですね」と









  その日は、週に一度の泉の水質調査の日だった
  
  泉の水と、底の部分の砂を採取し、その成分を検査する
  前の週と較べて成分の割合に変化が無いかを判断し、翌日に教皇の元へ報告書を提出する段取りになっている
  この水質調査日と翌日の報告書の提出日ばかりは、も毎週恐ろしく綿密に任務に集中していた

  …聖闘士が女神の為にとあれば命を賭して戦いに挑むと同様、この仕事が女神からに与えられた重要な任務であるからだ


  この仕事を始めたばかりの頃、は教皇宮付属の文献室で泉についての資料を探したことがあった


  とうの昔に茶色に変色したと思しき資料に曰く、この泉は今から3代前の女神の御世…おそらく750年ほど前か、突如としてその姿を現したらしい
  その起源には、数々のエピソードが存在するらしいが、現在はその伝承は全て風化し散逸してしまっているようだった
  主成分として含まれるいくつかの物質のうち、「銀星砂」と呼ばれる成分は、聖闘士の証であり最大・唯一の防具である聖衣を構成する物質の一つであり、
  その修復の為には必ず必要となること
  そして、この「銀星砂」は、チベットの奥地と…あとはこの泉でしか現在のところ採取できないということだった

  これらの文献を読み解くうち、デスマスクが言っていた「ある目的に使用され、そこそこの需要があるから管理人が必要」という意味がにも分かってきた
  なるほど…確かにこれなら女神直々に任命されるというのも頷ける
  チベットの奥地と異なり、この泉はまさに聖闘士…引いては聖衣の最重要拠点である聖域のお膝元に存在する
  従って、その必要性や重要性は桁外れなものとなるであろう、と





  「うっ…、ちょっと冷たいな―、やっぱり。」



  さぱっ

  利き足である左足から、はそっと泉に滑り込んだ
  川と異なり、源泉であるせいか、泉の水は6月とは言えまだ冷たい
  泉はの膝より少し上ぐらいの深さのため、採取の日はは半ズボンを着用して任務に当たる
  普段あまり日に晒されることのないの白い腿に、ぷつぷつと鳥肌が立つ


  「よい、しょ…っと。」


  一歩、また一歩、水の冷たさに自分の身体が早く慣れることを祈りながら、は泉の中央に向かって歩みを進める
  その左手には、二本の試験管が握られていた
  一本は、噴出し口の水を採取するため
  もう一本は、そのすぐ傍の砂を採取するためだった

  が一歩踏み出すごとに、足元の白い砂がぎゅしっ、と水の中で音を立てて軋む感触が伝わる
  砂は、その後の踵に蹴り上げられ、緩やかに水の中を舞う
  最初は踝より少し上くらいだった水面も、が進むにつれて徐々に深くなり、やがてその膝を覆うまでに至る


  泉の中央まで辿り着いたは、ゆっくりと背を落としながら左手を水の噴出し口へと伸ばした

  泉の噴出し口は、絶えず水を吐き出し続けている
  まるで生きているようだ、とは心底感じた
  ぶわぶわっと、口の周りでは白い砂が舞い上がり、また沈む

  …水に踊らされるそれらを、は自分の身と重ね合わせていた
  運命というものは、結局のところ本人とは遠く離れた所から自分を操っている
  …善きにしろ…悪しきにしろ
  生死にしても……愛憎にしても…
  問題は、それをどう受け止めるか、ということなのだろう
  …抗うも善し、享受するも善し



  「ん、しょ…。」


  は、片方の試験管に噴出し口の水を満たすと、水面の上に引っ張り出した


  「ん――。水はこんなもんだわね。…砂も入っていないし、これでいいと思う。」


  無色透明な水の入った試験管にコルクで蓋をすると、はズボンのポケットにそれを仕舞い込んだ

  もう一本の試験管を続いて右手に持ち換え、背を屈めて砂の中に埋めようとした瞬間だった


  「あっ!」


  が右手薬指に嵌めていた銀の指輪が、噴出し口の水流に当たったためかするりと外れて砂の中に見えなくなった



  「ああ――っ、私の指輪!!」



  は、慌ててその場に屈みこんで砂の中を両手で探った
  …ズボンが濡れようとも、この際は致し方ない

  それは、がアイルランドで買ったケルト紋様入りのものだった
  古い文献によると、それは「幸福」を意味する紋様なのだと、店の主がに教えてくれた
  何がどう気に入ったという訳ではないが、は気が付くとそれを購入していた
  …ただ、いつも傍にあるだけで、「幸福」な気分になれたなら
  のささやかな願いが、その指輪には込められていた


  「無い……、無いよぉぉ……。」



  はとうとう四つん這いになって指輪を探していた
  全身、どこもかしこもがずぶ濡れになっていた
  指輪が見つからないことで、は焦っていた
  …それは、まるで自分の「幸福」が目の前から忽然と消えてしまったようで


  キラリ


  焦るの視界の端に、小さな光が翳めた

  …!指輪だわ!

  が右手を伸ばしてそれに触れた感触を得た途端、の足元が大きく窪んだ




  「きゃあああああああぁぁぁ――――――っ!!」




  の身体がバランスを失い、どんどん沈んで行く
  最初膝上であった水位は、腰から胸の下にまで達しようとしていた


  「助けて―――っ、誰か、助けて―――っ!」


  ィイ―――ン、ィイ―――ン
  の悲痛な叫びが、森中に虚しく木霊した

  まるで蟻地獄のように、の足元はどこかに辿り着く感触を得ない
  ズッ、ズッ、ズッ……
  断続的に、の身体が深みに嵌って行く

  鎖骨にまで水面は達し、最早姿を現しているのはの肩と顔だけだった


  「だ、れか……デス…。」


  突然の死の予感に直面して泣く事も覚束無いの脳裏に、一人の男の顔が横切った
  銀髪の男は、の方を向いて口の端を上げて笑ってみせた
  …それは、いつもの飄々とした笑いではなく、どこかはにかんだ様な笑いだった

  一度だけ…私、あの笑顔を見たんだ
  …ああ、あれは聖域(ここ)に来た日の…女神神殿の帰りのことだったかも
  繋いだ手から流れてくる、デスマスクの温もり
  あの温もりを、今度こそ大事にしたい
  …私に、「今度」があればの話だけど



  「デス……。」



  微かに口元に笑みを浮かべた時、の頭部は水の中に消えた












  シュン、シュン……、ピィィィィ――――!



  カチッ、ぴううううぅぅ――



  「お――、沸いた沸いた。」


  ああ、デスの声が聞こえるわ
  まだ…私の中で、デスのことを思い出し続けているのね
  デスはあの時、私の耳元で…

  ………沸いた、沸いた!?




  ぱちり


  が眼を開けると、青色の薔薇の群れが目に入ってきた
  …この薔薇柄には、覚えがある
  私の…ベッドの天蓋だわ


  「…デス……?」

  芯の方がガンガンする頭を押さえて、は小さく呟いた

  どすどすどす

  途端、更に頭に響くような大きな音を立てて、銀髪の男は近づいてきた

  「!気が付いたか!!」

  デスマスクはの顔を覗き込むと、自分の胸を撫で下ろした


  「ああ――、良かったぁ。医者の野郎、『患者の気力次第ですな』なんてスカして脅かしやがるから、どうなるかと思ってちょっとヒヤっとしたぜ。」

  ぷ

  はそれを聞くと小さく笑った
  デスマスクはのその笑いを耳にすると、機嫌が悪いような、それでいて少し嬉しそうな表情をして口を尖らせた


  「おいおい、なんだよ。折角俺様が心配してやってるのに、なにも笑うこたあないだろうよ。おい、聞いてんのか、?」

  「…ありがとう、デス。…私を、あの時私を助けてくれたの、貴方でしょう…?」

  「………なんで分かるんだ、。」

  「…だって…。」

       だって、私が呼んだのはデスマスク、貴方だから

  口に出すことはせずに、は心の中でそっとそう思った



  の顔を暫く覗き込んでいたデスマスクは、しばらくすると思い出したように自分のボトムのポケットをガサガサと探り始めた


  「おう、、お前さんの探し物だぜ。…ほらよ。」


  デスマスクはベッドからの掌を引っ張り出して開かせると、丸いものを乗せて再び握らせた


  が恐る恐る再び掌を開いて見ると……姿を現したのはプラチナの小さな指輪だった


  「デス、これ…?」


  …それは、が落としたあのケルトの指輪ではなくて
  眼を丸くしたにデスマスクは少し顔を背けて、自分の左手の甲をの目の前に差し出した

  デスマスクの薬指に…の手の中のものと同じ指輪が光っている


  「デス…、それ…?」


  さらに驚きを増したを横目に、やや有って、デスマスクは重々しく口を開いた


  「あの女が…女神がお許しを下さったんだよ。…俺と、、お前の結婚をな。…俺の誕生日に合わせて。だから、買ってきた。…悪いか?」

  「わ…悪いもなにも…。」


  突然の話の展開に、眼を白黒させる


  「…不幸にはさせねぇ、ってお前に誓っただろ。だから…お前を幸せにしてやる、この俺が。」


  すっかり動転したの左手の薬指に、デスマスクはその小さな指輪をゆっくりと嵌めた


  外の陽光を受けて光輝く白銀の帯を、はただ眩しく見詰めていた
  幸運は…泉の中に無くしたのではなく、最初からきっともっと近いところに存在したのかもしれない

  のその耳元にデスマスクは薄い唇を近づけて囁いた


  「目を閉じろ…。」
 

  もう、抗わない

  は、くすり、と笑って瞳を閉じた



  「…6月の花嫁さんよ、」


  デスマスクの低い声が、耳の奥で木霊した





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